ときど記 後記 -7ページ目

のんだくれ

3日前と昨日と、ひさしぶりの(そして、いつもの様な)泥酔が続きました。のんだくれ。



3日前の木曜日は、バイト先の小料理屋さんで、高い日本酒をたらふく飲んだのでした。


その日はお客さんが早々にいなくなってしまったので、僕のバイトの時間が終わるのを待ってから、板前さんと、お手伝いさんと、僕の3人でちびちび飲みつつ、はなしをしていました。


先代のバイトさん達のはなし。

いつもいつも汚らしい格好でお店に来ていたにも関わらず、やけにお客さんからも好かれ、挙句、某大企業に就職した男性や、バイトを卒業後も、子供を連れてお店に来るなど懇意にしていたのに、ぷつりと音信が途絶えてしまった女性。


板前さんとお手伝いさん2人が学生だった頃の就職のはなし。


数年前まで、夜11時にお店を閉めてから山登りにいらしていた!というはなし。


板前さんの貧乏自慢。

学生の頃、安く酔うために「お酒を飲んで走った」とか、

「パンの耳を格安でダンボール箱単位で買い込んでいた」とか、

「そのパンの耳に、ジャムをお湯で薄めてつけて食べた」とか、

「ジャムの味がぎりぎりわかるくらいまで薄めるにはコツが要ったんだよ」とか...



人に歴史あり。店に歴史あり。です。



で、昨日は、サークルでお世話になったりお世話したりしている肢体不自由の方の家で、お酒やごはんをごちそうになりました。


その方は、お酒は好きだけれどけっきょくあまり多くは飲まない(飲めない)。

でも、自分の周りでみんながにぎやかにしているのが大好き、というひとで、その方とご両親、そして僕らサークルのみんなとでわいわいやっていました。


だいぶ酔っ払って、サークルの内輪ネタに終始したり、お父様の(これまた)貧乏ばなしにしんみりしたり、

ふらふらなひとをいじったりしらふなひとをいじめたりと、個人邸で開催されたとは思えないほど盛り上がりました。



楽しいお酒が大好きです。

就職活動もひと段落ついたので、今後はますます飲みます。最低限のモラルは気にしつつ...

4月の寄付。

さてさて、先月、4月のときど記 後記の総訪問者数は、795人でした。

精神的に参っていて、ブログの文章まで今までになく拙い、しかも勢いの無いものばかりになったと思います...

ご覧になってくださった皆さん、どうもありがとうございます。


コメントは6件、トラック・バックは3件ありました。

どうもありがとうございました。


というわけで今月の寄付は、

訪問者数 × 10円 + コメント&トラックバック × 100円 =

7950 + 300 + 600 = 8850円

となります。

大学生のお財布の許容範囲は、これくらいですね...



今月の寄付先は、

メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパンhttp://www.mawj.org/ )。
make a wish = 願い事をする。難病のこどもたちの夢をかなえる、という素敵な活動をしている団体です。


子供たちの色んな夢。

警察官になってみたい、自分のイラストを本にしたい、遊園地に行きたい、

野生のイルカと一緒に泳ぎたい、サンタクロースと遊びたい...


子供たちが、病気や障害のために本人や家族の力だけでは叶えられない夢を、あるいは、病気の子供たちを元気づけられるような夢を、なんとかして実現するための支援を行っているそうです。

子供たちは、大人が見れば突拍子もない、でも素直で楽しさに溢れたアイデアを次々と生み出します。

それを、不合理だからといって止めてしまいたくない。むしろ一緒になって遊びたい。

そんな僕自身の思いも込めて。特に、難病を抱える子供のために、夢と遊びを提供できたらいいなと思います。メイク・ゼア・ウィッシュズ。


どんな夢の実現に役立てられるのでしょうか。

ダイエー + hp

ダイエーの新しい社長に就く樋口 泰行氏の会見を聞きながら、そうか、今までのダイエーはお客さんのことなんて何も考えない経営をしていたのか、と思いました。


小売業界の中でも、特にいわゆるスーパーの苦戦の根本は、きっとそこにあるのでしょうね。お客さんを度外視したお店づくり、商売がずっと続けられてきたこと。

客足をコンビニなどにとられたというのなら、コンビニよりもさらに魅力に溢れた店舗づくりを目指していくべきだった。その工夫が、果たして為されたのかどうか、そして利用客のニーズに合ったものだったのかどうか?


我が家の近所にも、ダイエーの大きな店舗があります。

品揃えが豊富で歩いているだけでも楽しい、と僕は思っていますが、一方で、店内の広さゆえに不便さを感じている、と話すおば(あ)ちゃんもいました。


お店の経営は難しい。全員のニーズをぴったり適えることは無理だとしても、より「お客さんのことを考えた」お店に変わっていくことを、期待します。

そしてそれが、他の小売業にとってもいい刺激となることを。

ホームヘルパーさん、たいへん の続き

僕は大学入学以来3年間、大学のサークルに所属し、身体・知的障害をお持ちの方の介助をしてきました。


その中で、利用者から、嫌がらせに近い行為を受けたことは確かにあります。それも、利用者側に悪意が無い場合がほとんどです。


たとえば、連日、昼間から夜にかけて執拗にメールや電話をしてくる。メールや電話をくれているその人には、何の悪意もない。話題を共有したり、会話したい。こうして書くことがばかばかしく感じられるほど自然な、人と人とのコミュニケーションです。


でも、それがあまりにもしつこいと、僕も耐えられないときがある。

それを嫌がらせと受け取るのか、障害を持つ人の介助に少しでも携わる者として甘受すべきことと思うのか。そもそも、それを障害の所為にしていいのか?


僕は、嫌と感じたことは、なるべくその通り伝えるようにしています。でも、それが間違いだったこともある。人によっては、嫌だと伝えることが強すぎる刺激になってしまうことがある。


色々、考えてしまったんだ。


ホームヘルパーの4割がセクハラを受けた経験がある 、という今回のニュースを見て、自分のサークルでの経験を照らし合わせてみたり、それだけでは理解できないものがあるのかなあと考えたり。

色々考えてしまったんだ。

ホームヘルパーさん、たいへん

障害をお持ちの方や高齢者からセクハラを受けたことのあるホームヘルパーが、4割にものぼるのだそうです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050522-00000005-khk-toh


入浴介助やマッサージ、着替えの手伝いなどの際に、利用者の下半身を触ることを強要された、とか、利用者の家族に強姦されそうになった、とか...

あるいは、執拗な要求を拒んだことで、契約打ち切りや、解雇に至った例もあるといいます。


しかも、それらの問題が、介護の場という「密室」で起こるために、また仕事を失うことにつながり兼ねないために、表面化してこなかった。

それが、今回、山形県の社会福祉士の方による調査で、初めて事態の深刻さが浮き彫りにされました。


この問題は、被害経験4割という数字が示す以上に深刻です。


まず、線引きが難しい。

セクハラか、そうでないかを何をもって判断するのか。その客観的な根拠はあるのか。

体と体を触れ合わせて行う介助は多い。


次に、防止策をどうするのか。防ぐことは可能なのか。

ヘルパーが嫌な思いをしているのに、利用者に何の悪意も無い、という場合、あるいは、(言い方は悪いけれど)利用者が相手の気持ちを思いやる力を持たなかった場合、「セクハラ」ということばの意味自体がちゅうぶらりんになりかねない。


前者の場合は、ヘルパーが嫌な思いをしていることを、利用者やその家族、あるいは事業所に繰り返し伝えることで、解決に向かうかもしれない。

でも後者の場合だと、根本的な解決は無理。ヘルパーは、性的に嫌な思いをすることを常に覚悟した上で仕事に臨まなければならない。その辛さは、筆舌に尽くしがたい。


もちろん、ホームヘルパーという仕事は、楽なものではないし、いつもいつも気分よくできるという類のものではないはずです。それでも、セクハラと感じる仕事をいつまでも続けることまで、覚悟しなければならないのでしょうか?



高齢者社会を迎え、また障害を持つ人への支援策が転機を迎えている今、ヘルパーの心身の安全を確保することは急務です。


まずは、ヘルパー事務所側が、ヘルパーからのセクハラ被害の報告を受け入れる体制をつくることが必要でしょう。現状では「あなたの心構えが悪いからだ」と一蹴されることもあるといいます。それでは、ヘルパーの保護などできない。事後の対応を改善しなければなりません。

そして、ヘルパーの人数を増やす?等により、密室でのセクハラ被害が起こりにくくする。事前の防止策です。


ホームヘルパーによる手助けを必要とするひとは大勢いるし、ホームヘルパーを志す側のひとも多い。

だからこそ、ヘルパーが嫌な思いをすることが当然と見られるような風潮は、無くさなければいけません。

わかめちゃん

新しいワカメちゃんの声に、著しく違和感を覚えます。


今までのワカメちゃんの声に慣れているというのも、あるでしょうが。


よくよく注意して耳を傾けてみると、サザエ・カツオ・ワカメ・波平...磯野家の皆さんの、声のメリハリが無くなってしまったのでした。

今までのハスキー・ワカメと違って、カツオくんの声に近い低めの声のワカメちゃんだから、映像を見ないで声を聞いていると、カツオとワカメの声の違いが掴みにくい。(僕だけでしょうか?)

それが、違和感の原因かもしれません。


まあ、直に慣れていくのでしょう。僕の父が毎週欠かさず「サザエさん」を観ています。



カツオっていい奴だなあー。サークルの後輩O君に似ています。


ことばと温度

ホームレスの人々を「ホームレス」と呼ぶことは、間違いです。


ホームレスというのは「家が(home)無い(less)」という状態を表す形容詞。だから、「ホームレス」を人称代名詞的に使うことに、強い違和感があります。

ホームレスの人、ホームレスの方々、という風に使うのが、本来のはずです。(英語なら、形容詞に定冠詞をつければ人を表す。「the homeless」)

「ホームレス」は状態であって、人間そのものを表すわけではありません。


これは、単なることばの問題です。本当はわざわざブログ上で書くような問題ではないのかもしれない。

でも、公園で寝泊りしているひとを目にして、あ、ホームレスがいる、と言うのと、ホームレスの人がいる、と言うのとでは、ニュアンスの微妙ながら重大な違いがあるように思えてなりません。


ホームレスの方一人ひとりに、当然ですが、名前があります(それを放棄してしまわない限り)。それぞれ違った理由で住処を失ったはずです。その事実を一概に括りたくない。

ホームレスの人をただホームレスと呼ぶ行為には、そうした人々を一括りに(たとえば、かわいそう、とか、汚い、とか)考えてしまう感情の冷たさが潜んでいるような気がして、なりません。

シャル・ウィ?

 「相手がダンスだって、それは浮気だわ」


 「浮気じゃない、本気だったんだ」



― 映画『Shall We Dance?』の中で、社交ダンスを習っていることがばれた夫と、彼の妻の会話。

両親が熱心にテレビで観ていて、僕はパソコンに向かっていたので、前後の文脈はわかりませんが、たまたま耳に入った上記の会話が、心に残りました。

妻や恋人に黙っていなきゃならないほど、そして相手を激しく嫉妬させるほどに(そう、相手に、探偵を雇わせるほどに)熱中する趣味があるのは、素敵だなと思ってしまいました。

ダンスに恋人を奪われた方は、たまったものじゃあないでしょうが。


僕にいま足りないのは、熱中できる何かなのだろうなと思います。

就職活動がそれかどうかは、わからない。楽しんで、いっぱい悩んで考えて(それこそ、ときどきガール・フレンドを放っておくほど)はいるけれど、就職活動自体が目的 = ゴールではないから、僕はそれに熱中しているとは言いたくない。


熱中。

先日、海でサーフィンをしていて、岸に帰れなくなったときは、それはもう、死にもの狂いで泳ぎましたが、全力を尽くしましたが、それは熱中とは違うよなあ...


いつもここから。

命の大切さを知ったときー

命の大切さを知ったとき-


サーフィンをやってて岸に帰れなくなりそうになったときー

サーフィンをやってて岸に帰れなくなりそうになったときー



命の大切さを知ったときー

命の大切さを知ったとき-

 

どうにか岸に戻って友達と大笑いできたときー

どうにか岸に戻って友達と大笑いできたときー



命の大切さを知ったときー

命の大切さを知ったとき-


これからも一生懸命に生きていこうと思いましたー

これからも一生懸命に生きていこうと思いましたー


余裕なき世の中の事故

JR福知山線の事故はあまりにも悲しいものになりました。

事故現場の映像や写真を見る度に、やりきれない思いになります。


事故に巻き込まれた大勢のひとと周囲のひとの、心身共の回復を願うと同時に、

これは僕の身にも起こり得る事故なのだということを思わずにはいられません。


原因の究明はまだ進行中。考える原因として、オーバーランによる時間の遅れを取り戻すために運転士がスピードを出し過ぎた...等々言われています。

これと全く同じ理由で、僕が毎日利用している横須賀線、山手線、地下鉄線で事故が起こったとしても、不思議ではない。そう考えるとぞっとします。


原因はしかし、もっと奥深いもののはずです。その背景の一つとして、全体的な「余裕の欠落」が挙げられると考えています。


電車の過密スケジュール、少しでも「速く」乗客を運ぶことを至上命題にする鉄道各社、それを何の疑問もなく利用する僕たち。

運転士と車掌の判断による速度超過が原因の一つなら、間違いなく、少しの遅れも許さないJR側の方針や、そうした社会の在り方が背景にあります。

つまり、電車を運行する・利用する一人一人が、余裕を許されない状況にあることが、事故の遠因として考えられると思うのです。


運転士が先を急いだこと、その背景である少しの遅れも許さない会社側の方針・あるいは社会の在り方が、事故の遠因ならば、この事故の直接的な原因の解明と共に、日本の都会に住む一人一人が生活スタイルを見直すことも必要になるのではないでしょうか。

電車やバスは1時間、2時間遅れがあたりまえ、という社会だったら、たとえば急ぐことによって事故が起こるということはないでしょう。もちろんそうした中でも諸々の原因によって事故は起きえますが...


この悲惨な事故から、僕たちが得るべき教訓は? 一人一人が、ほんの少しの寛容を持つことだと僕は思います。

それはJR、鉄道各社、多くの交通機関も同じ。スピードばかりを競うべきでないということが、事故で明らかにされました。

安全なサービスを提供すること。そして小田急や東急が力を入れているように、車椅子の利用者やお年寄りにも使いやすいバリアフリーの、言い換えるなら余裕のある、駅・列車の空間づくり。そうしたことに力を入れることが、次の事故を防ぐはずです。


そして、福知山線の事故をはるかに越える死者数を年間で出しているであろう電車事故、人身事故を無くしていくことも、鉄道各社や、この社会に住む一人一人の責務です。


便利と引き換えにひとが傷ついたり死ぬのは、もう嫌だ。