ときど記 後記 -6ページ目

濡れてもOK、に、ならないかなあ

もはや7000万人が所持しているというほど普及していて、機能もどんどん増えて、向上して、多くのひとにとって日常生活に欠くことのできないものになったにも関わらず、携帯電話はいまだにちょっとした水にも衝撃に対しても弱っちい存在です。

耐水・耐久性に優れているのは、auから発売されているCASIO製のモデルくらい。


日常生活のいたるところで、水を使うとか、ぶつかるとか、あるわけで、持ち運びできることが最大の利点である携帯電話が、日常生活のちょっとした局面に対応していないのは、携帯電話機器のメーカーに誠意が無い証拠と言えます。


中でも特に、携帯電話が水に対応していないのが、僕にとって一番の困りどころ。

以前、携帯電話をお茶に漬けて壊してしまった経験があるのです。

あれは、ショックでした。いとも簡単に壊れてしまった、多くの情報と思い出が詰まったケータイ。


僕だけでなく、濡れてもOK、な携帯電話を望むユーザーは潜在的に多いはずです。

腕時計、家庭用電話など、耐水性に優れた精密機器は既に多くあります。


携帯用の着ぐるみなんて作ってる場合じゃねえよ。日常生活に最低限必要な機能をまず、付けてほしいです。

「近くに水気のものを置かないでください」なんて説明書に書かれてあっても、そうした水を含むものは生活のいたるところにあるのだから。


デザインもよし、機能もよし、耐水性もばっちりな携帯電話が、今後多く生まれてくることを願います。


アンガールズのクリエイション

今月号の『荘苑』に、「アンガールズが着る東京コレクション」みたいなページがありました。

アンガールズって、あのアンガールズです。僕は、好きじゃない。

ただ、その特集はけっこうおもしろいと思いました。見開き4ページで、アンガールズの2人が今期の東京コレクションの服を着るという企画。

アンガールズの2人は、つぶれたような顔にひょろっと細長い手足で、
つまり、彼らが普段着ているような汚いTシャツにジーパンではなく、仕立てのいいジャケットなんかをちゃんと着こなすと、個性的で、見栄えがするタイプ。
そんな2人をうまく活かして、テレビで馬鹿やってるのとは違った、2人の(荘苑的な?)魅力が表現されているように感じました。

『荘苑』はこうした企画がうまい。女性向けファッション誌ならではの視点と表現が、僕にとって意外であったり刺激的であったりします。

ひとの新しい魅力をファッションによって明らかにする。ファッションや、ファッション誌は、やっぱりおもしろいなあと思いました。


さて、テレビをつけると、Tシャツとジーパンをださく着こなしたあの2人の姿があって、またがっくり...


ゲック

月9とか連ドラとか、ありとあらゆるドラマをなかなか観ない僕が、主演の女優さんを観たいがために、昨日、ひさしぶりにドラマを観ました。

ドラマのタイトル文字やポスターもちょっと素敵だなあと思って、ひさびさに楽しみにしていたドラマだったのです。


が。


ちょっとした細部にいちいち腹を立てていて、僕はあまりドラマを楽しめませんでした。

こういうのは、思いっきり頭を空っぽにして観るものなのかしら?


登場人物の会話や、身振りを見ながら、

仮に現実のコミュニケーションの場面でそう振舞うひとがいたら、如何に不自然だろうと、そんなことばかり考えながら観ていました。

要はつっこみどころばかり目についてしまったんですね。


あるべきリアリティに欠けていて、いわゆる説明口調が不必要なディテールを付け加えてしまう、残念ながら、そんなドラマでした。


話の筋は、悪くないと思ったんだけれどなあ。


深津 絵里さんが主役というだけで、絶賛に値すると言いたい僕ではありますが、

残念ながら、深津 絵里さんの魅力は、変なせりふ回しのせいで半減してしまって、冴えない、意地悪な「だけ」の女性役になっていました。



舞台演出家、平田 オリザ氏が、彼の著書『演技と演出』の中で言うには、


「わあ、美術館に来たねえ」

というせりふを登場人物に言わせること無しに、お客さんにその場面が美術館であることを間違いなく伝えることが、演出には不可欠です。


その場面が美術館であることを、説明ではなく、観るひとの想像力によってつくりあげることが、おもしろい劇の基本だということでしょう。


考えてみれば、当たり前のことです。観るのに想像力の要らない舞台やドラマなんて、観るに値しない。そんなの絶対につまらない。



視聴者に対するわかりやすさは、ゴールデン・タイムの放送だから、もちろんある程度は必要でしょうが、表現として冴えないのは、よくないと思うのです。

もったいないと思うのです。



ドラマのはなしに戻って、僕が深津 絵里を好きなのは間違いないから、次回以降は

「このせりふのここがむかつく」

なんて考えるのはやめて、ドラマを思いっきり楽しもうかなあと、思います。


そういう楽しみ方だって、もちろん、ありです。

5月の寄付。

ときど記 後記、先月5月の総訪問者数は、639人でした。


更新回数が、残念ながら、ブログのタイトル通りときどきになってしまいました。そのせいか?、訪問者数も少なめでした。更新の熱意と訪問者数が比例するという不思議。

何はともあれ、ご覧になってくださった皆さん、ありがとうございます。


コメントは12件、トラック・バックは1件ありました。

心温まるコメントもありました。

どうもありがとうございましたー。


というわけで今月の寄付は、

(訪問者数 × 10円 + コメント&トラックバック × 100円 =)

6390 + 1200 + 100 = 7690円



寄付先は、
ケニアのワンダリ・マータイさんを代表とするグリーン・ベルト運動


資金を集め、貧しい女性を雇って植林運動をすることで、女性の社会進出と貧困改善、さらには森林伐採が進む国内の環境問題への取り組みもしてしまうという、一石三鳥(以上?)のユニークな運動です。以前、当ブログでも記事を書きました。


ケニアの環境相であるワータイさんは、昨年、この運動が評価されてノーベル平和賞を受賞しました。環境問題への取り組みが平和賞を受賞したのは史上初。すごいことです。


今回、毎日新聞さんがマータイさんの運動と、彼女が気に入ったという日本語「もったいない」の普及を支援していくとのことですので、毎日新聞社を通じてマータイさんの活動を応援したいと思います。


日本以外の国にはない意味合いのことばであり、概念である「もったいない」は、確かに、環境問題の解決のヒントになる気がします。


たとえばグリーンベルト運動も、画期的でありながら、その仕組みはいたってシンプルです。理不尽に見捨てられてきた女性の労働力を活かして、人手不足の環境問題に着手すること。

それはまさに「もったいない」を具体的な行動に移したものだと言えます。ぜひ、今後も継続していってほしいです。


ただ、マータイさんが賞賛したとはいえ、あまりにも「もったいない」を流行語のように扱って騒いでいるのには、閉口してしまいます。


大切なのは騒ぐことではなくて行動すること。スローガンはもう要らない。


何はともあれがんばれマータイさん!

おつかれー

「おつかれー」とか「お疲れさま」って言うのが、本当はあまり好きではないのです。


目に見えて疲れているひとに、追い討ちをかけるように「お疲れ様」と言うことで、余計疲れさせてしまうこともあるんじゃないかしら。


あるいは、疲れてもないのに、別れの挨拶が「お疲れー」だと、あれ、って、違和感を覚えることもある。

大学生になって以来、さようなら、とか、ばいばい、ではなく、何かと「おつかれー」と挨拶するようになったような気がします。

大学生、そんなに疲れてばっかりの身分なのかなあ。


もちろん、朝から晩まで働いて、達成感を得ながらもくたくたになって、で、「おつかれー」と言い合う、そういうのはちょっと素敵な気もします。


それでも、さようなら、の響きの方が、好きです。

仲間うちで使うには、ちょっとよそよそしい印象も受けるけれど。



最近、サークルの部室で、部室から去る人に対して「いってらっしゃい」と言うのが、極めて個人的な、ブームです。


今までは、そして今も他のたいていの人は、「おつかれー」が主流。

でも、どこかへ出かけるひとに対して言う「いってらっしゃい」の家庭的な響き、いいなあと思うのです。


今日、いってらっしゃいと言っていたら、「いってきます」と返されました。


このやりとりから察するに、部室に来たひとに対してかけるべきことばは「おかえり」です。

いってらっしゃい、おかえり、で迎えられるような雰囲気の部室っていいよなあ。みんな仲良し。


そこまで考えた直後、いや、そんな部室なんか、自分は行かなくなるだろうなと考えを改めました。もうちょい淡白な方が居心地がいい。笑。



僕のお気に入りCDベスト10(いや、20)に入る、クラムボン『imagination』は、1曲目「いってらっしゃい」で幕を開け、最後は「おかえり」で終わります。


「いってらっしゃい」は、電子音に、ボーカルの声が重なる、舞い上がるイメージの曲。

「おかえり」は、小淵沢の自然の音の上にキーボードが鳴る、静かな曲。


わいわいわい、と始まって、すーっと閉じる。自然の起承転結の、クラムボンならではの表現。

人間の根源の気持ちよさはそんなリズムなのかもしれません。



話は戻って、いってらっしゃい・おかえり運動は、繰り返しますが、極私的なもの。今後も細々と続けようかな。

比較のような そうでないような  1

合理的だと思うもの : フォーク並び


非合理的だと思うもの : 社会人のスーツ着用



合理的だと思うもの : メーリング・リストにメールを送信する


しばしば非合理的だと思うもの : メーリング・リストのメールを受信する



合理的だと思うもの : 人頭税


非合理的だと思うもの : 極端な累進課税(日本!) 

 

 

合理的だと思うこと : 生協のシステム

 

非合理的だと思うこと : どうして大学は基本的に4年間通うものなのだろう?



合理的だと思うもの : 図書室


非合理的だと思うもの : 公立図書館



付き合いたい女性 : 木村 カエラ


結婚したい女性 : 深津 絵里


安全 ということ 安心 ということ

JR福知山線(宝塚線)の事故から55日、同線は今日、運転を再開しました。


テレビでニュースを観ていると、JR西日本の垣内社長が献花台に花を手向けるところが放映されていました。

垣内社長のコメントは、今後二度とこのような悲惨な事故を起こさないよう努力し、「安全で安心な鉄道によみがえらせたい」、という内容のものでした。


献花とこのコメントがポーズと建前でないことを祈りつつ、では、彼の言う「安全」そして「安心」とは一体どういうものだろうかと考えずにはいられませんでした。



「安全」は、体感できるものです。

つまり、沿線のマンションに突っ込むような電車の運転は、明らかに安全ではない。

そうした大きな事故や、ちょっとした急停車や揺れなどの小さな事故が無い・少ないこと、電車の運行に限るならば、それが「安全」です。


ただし、風邪や病気にならないと健康のありがたみがわからないように、あるいは「水や空気のような存在」といった表現が示すような、それこそ水や空気のように、

安全は、安全でない事態を知ったときに初めて感じられるものです。


僕自身、中学時代から10年間も電車通学を続けてきました。その中で、たとえば今回の福知山線の事故や、しばしば起こる人身事故と比較したときしか、自分の利用している電車が事故に遭ったことが一度も無いことに気が付きません。


福知山線の事故後、JR東日本では高性能のオート・ブレーキ・システムを導入していて事故の心配が少ない、ということが報じられました。

僕はその報道を見て初めて、その事実を、つまり自分が利用している交通機関はこんなにも安全であったということを、知りました。


安全は、皮肉なことに、たいていの場合、安全でなくならないとわからないものなのです。



その安全を、安全な状態のときに感じられることが、「安心」だと思います。

つまり、健康なときに自分の健康な体に感謝できること。


安心は、だから、当たり前のように利用しているばかりではわからない。

安心を形作るのは、事故や不測の事態を未然に防ぐ機能をよく知っておくことと、何よりも、大きな信頼感。


電車であれば運転士や、駅職員、鉄道会社の誠実な対応が、長年継続されることで、少しずつ信頼を築き上げていくでしょう。この電車なら、事故も無く絶対に安全に利用できるぞ、と。


信頼は、時に根拠の無いにせものの安心感を錯覚させてしまうのかもしれないけれど、長年の実績に裏付けられた「真の信頼感」は、何よりの安心を、利用者に提供することでしょう。
信頼は、そしてそれによって得られる安心は、一朝一夕では築くことはできない。



話は戻って、JR西日本がすべきは、

安全を確実なものとすること = 事故防止の設備と、職員の教育等々によって。

安心を築くこと = 安全な運行をずっと続け、安全を証明することによって。


鉄道の安心と安全を明言した垣内社長に、具体的なアイデアとその達成を強く期待します。


美しい足跡

サッカーはチーム・スポーツ、1人で勝てるものではない。しかし、優れた1人はチームを変えられる


雑誌『Number』からの引用です。

ブラジル、スペイン、そして世界を代表するプレーヤー、ロナウジーニョ選手のインタビュー記事の中で、所属するバルセロナに活気と強さをもたらした同選手を称して、こう描かれていました。


うーんなるほど。確かに、ロナウジーニョのテクニックはチームの決定力を増やし、彼の笑顔はチームに活気をもたらし、また、結束力を高めたといいます。

彼の活躍がバルセロナの快進撃につながったことは間違いない。優れた1人が確かにチームを変えたのです。


さて、サッカーというスポーツについての記述ではありますが、日常生活の様々な局面に適応するように思いました。


人間は社会性を帯びた生き物。世の中には、無数の団体活動があります。

家族、学校のクラス、授業、会社の職場、店、サークル、友人同士、恋人同士...


団体の活動は、ともすれば停滞しがち。そんな中で、優れた1人の活躍が、その雰囲気をがらっと変えることがあります。
もちろんサークルにしろ企業にしろ、誰か1人だけのものではない。でも、誰か1人のがんばりが、やがて大きな変化を呼ぶことは可能です。


バルセロナに活気をもたらしたロナウジーニョであったり、日産自動車を変えたゴーン氏、あるいはたった1人のアルバイトの意見を積極的に取り入れた無印良品のキャンペーンであるとか、まあ例は色々あるでしょう。


僕の周りにもいます。それはクラスであったり、サークルであったり。

重くなった雰囲気を打ち払おうと、1人でも懸命に努力しているひと。


1人の努力に周囲が応えたとき、きっとすばらしい化学反応が起こるはずです。

ロナウジーニョは、サッカーを通してそのことを証明してくれたように思います。



少しはなしは変わって、同じインタビュー記事の中で、ロナウジーニョ選手のこんな台詞が紹介されていました。


このクラブに名を刻みたい。僕の名前を永遠に残したい。いつか自分の子供がここを訪れたとき、僕のことをこう言ってもらいたいんだ。

 君のお父さんはここに足跡を残していったんだよ、美しい足跡を残していったんだよ


ああ、ロナウジーニョだ。

彼の、自分のプレーへの誇りと、所属するチームへの愛と尊敬に溢れたコメントに、感激しました。これだけのことを堂々と言える彼を改めて尊敬しました。


同時に、強く共感もしました。まったく同じ気持ちを、僕は、僕の所属するサークルに対して抱いている。


深く、くっきりと名を刻みたいというわけではありません。たとえば僕の卒業後、何十年後かに、部室の整理をしている誰かが、古いノートに僕の名を見つけ、その記述を見て何かを感じ取ってほしい。

感動とか、アイデアのヒントを得るとか、そういう具体的な成果ではなく、もっと漠然とした何か。


何かよくわからないけれど、美しい足跡。

僕の足跡を誰かが見つけて、それを美しいと感じてくれたなら、僕は自分と、自分が長く所属したサークルに確かな意味を見つけられるような気がします。

出る杭を打つ? i pod に課金

i podに課金...という報道があって、とうとうかと思いました。

僕自身はまだお金を貯めていないので、携帯音楽プレーヤーを買うに至っていません。うーん、課金前の今が買い時になるのでしょうか。


課金の目的は、著作権の保護。デジタル録音による音楽の複製によってCDの売り上げが落ちたり、著作権を乱用されることへの補償。

音楽作品の著作権を管理するJASRAC側は、現在発売されている携帯音楽プレーヤー1台につき500円から1000円を課金し、そこで集められたお金を著作権を持つ会社や個人に分配する案を出しています。


私的録音録画補償金というのだそうです。

既に、MDやMDレコーダー、CD-R等には課金されているそうで、MD1枚につき4円、レコーダー1台につき400円、といった具合。


音楽制作者の側としては、ITに乗って音楽作品がどんどん安くコピーされてしまうのに危機感を覚えるのは当然でしょう。

でも、どこか、出る杭を「打つ」ような印象も受けます。CD等、従来の音楽メディアの売り上げ低迷の原因を、携帯音楽機器の台頭になすりつけているような。

i podを持っていても、本当に欲しいと思う音楽にはお金を出すと思うのです。音楽シーンの低迷には根本的な理由があるはず。それがないがしらにされていないか?


携帯音楽プレーヤーへの課金は不可避だとしても、CD等、従来音楽制作・販売に携わってきた側の人々の工夫もきっと必要です。

あくまで僕自身のセンスですが、ヒット・チャートなんかを眺めていて、魅力的に感じる音楽ってほとんどありません。


でも、魅力的な音は確かに無限にあります。僕は今日もタワレコへ行きます。


(not)クール・ビズ

国会中継を見ていたら、今月からクール・ビズが導入されたために、スーツの人に混じってストライプのシャツやパステル・カラーのシャツを着たおじさんがいっぱい。

特に、最前列に座る閣僚の皆さんは全員、思い思いにシャツを着こなしていらっしゃるようです。


しかし、なんだかだらしねえなー。

確かに涼しそうではあるけれど、クールではないです。シャツの着こなしがへたっぴ。肌の色に合っていない。似合っていない。もしくはだらしない。人によっては、スーツを着ている方がまだ見栄えはいいかもしれません。


単にシャツ姿を見慣れていないから? たぶん、そうではない。

よく観察してみると、皆さん、姿勢が悪いんですね。


背を丸めてひとの話を聞いていたり、リラックスしきっていたり、緊張感を欠くひとが少なくない。(寝ているひとは、いつもの通り。)

それは、スーツの代わりにシャツを着ているせいではなくて、おそらくシャツ姿になったことで姿勢の悪さがいっそう明らかになったと考えるほうが自然でしょう。

スーツ + ネクタイでもだらしないひと、いっぱいいるから。


まあ、大事なのは活発な議論がなされることだから、涼しいシャツ姿の方がいいというひとはシャツで、スーツの方が身も気も締まるというひとはスーツ姿で、国会に臨めばいいと思います。

どちらでもいいけれど、でも、どちらにしてもだらしない着こなしと見栄えだけは勘弁してほしい。


以前、『広告批評』上で天野 祐吉さんが書いていたように、政治や国会の論戦は、その国を表す一つの指標、他国に対しての広告たるものです。

だから、議員の方々がだらしないということは...