絵を観る眼 | ときど記 後記

絵を観る眼

絵画や写真、版画や彫刻など、美術作品を観る眼に良い・悪いがあるとして、

良い眼というのは、美術館に飾られていないものを見て、美しいと思えるかどうかだと思う。



美術館に展示されているものは美しい、何か価値あるものだ


というのが、美術館に足を運ぶひとの意識に大前提としてあります。


それはある意味で正しいけれど、
他方では残念ながら正しくない。



美術館や博物館に置かれているものには、それを選んだひとがいます。

この作品には館の予算を使って購入する意味がある!という判断があって、初めて作品は収蔵されます。


つまり作品が美術館に置かれている根拠は、大雑把に言って、館や学芸員の価値判断でしかないということです。



ひとによってはそれを評価するでしょう。

ひとによってはそれをイマイチだと思うでしょう。


ただ、好むにしろ好まないにしろ、美術館・博物館に置かれているものは評価の対象になります。


その反動で、そうした文化施設に展示されていないもの・展示されそうにないものは、

あたかも価値のない・注意を向ける必要の無い・少なくとも美的価値のない、そういうものだと捉えられがちです。


捉えられがちもなにも、たいていのひとには見向きもされません。



普段使いのお茶碗や、商業デザインや、小さなこどもが描いた絵と言えないような絵や、

写真に興味のないひとが撮ったヘボ写真や、ケータイの写真や、

ゴミのようなものや、ゴミや、染みや、

路地や、まち並みや、自然は、


それぞれに用途や機能があっても、美しいかどうかで語られることは少ないように思います。



それは悪いことではありません。

そもそも、「美しい」なんて曖昧なことばも概念も、要らないかもしれない。


でも、それはもったいない。

よく観れば、いい!と思えるものは無数にある。どこにでもある。


美術館だけが美の宝庫ではない。

博物館だけが知の倉庫ではない。



美術館に飾られているものや一般に「美術」だと括られるばかりをああだこうだと評論して、それ以外のものに少しも美的関心を向けられないひとの眼は、

「にせもの」

だと、僕は思います。



會津 八一氏は「隻眼で見ろ」ということをしばしば仰っていたそうです。


両目を開いたままでは見えないものがある。

片目をつぶると、よくみえてくることがある。


そんな意味のお説教だったように思います。



人生、隻眼、24時間。